仏の顔も三度まで(ほとけのかおもさんどまで)
「仏の顔も三度まで」とは「温和で我慢強い人でも三度も無礼をされると流石に怒り出す事」です。仏教の教えとは基本的には人を許し受け入れるという前提がありますが、それでも無法な行為を繰り返す者には時には怒る事もあるのです。しかし、怒りを露わにしても慈悲深い心できっと相手を許して改心させているのでしょう。
この記事の目次
仏の顔も三度までの意味とは
「仏の顔も三度まで」の意味は以下の通りとなります。
(1)仏のような温和な人でも、無法な事を繰り返されると怒りを露わにする喩え。
(2)温和な仏でも顔を三度撫でられると腹が立つ事から、我慢にも限度があり無礼や無法を繰り返されると誰でも最後には怒り出す事。
(3)「仏の顔も三度」「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」も同義。
「仏の顔も三度まで」は簡単に言えば「どんなに優しい人でも我慢には限度があり最後は怒り出す事」です。仏教の僧は修行によって少しばかりの事では怒らない大変慈悲深い心を持ち合わせていますが、それでも顔を撫でるという無礼が三度も続けば我慢の限界を超えて怒り出すのです。そこから、現代においては数度の失敗や無礼には我慢をして目を瞑ってきたが、もう許せなくなった時に感情が爆発して「仏の顔も三度まで」という物言いをします。よって、単に怒っているのではなく、相手に自分は何度も我慢を重ねたがそれも限界だと主張する際に使われる諺となっています。
仏の顔も三度までの由来
仏教発祥の諺「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」を略した形が「仏の顔も三度まで」です。しかし、「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」がいつ頃誕生したかなどの詳細については残念ながら分かっていません。「仏の顔も三度まで」を使った文献は、江戸時代の小説集「浮世草子」の「傾城禁短気」などに文言が記されています。
仏の顔も三度までの文章・例文
例文1.昇進したのを言い訳に調子に乗って朝帰りを繰り返したある日、リビングのテーブルに家を出るという内容の置き手紙が有り、仏の顔も三度までだったと後悔したが取り敢えず女友達に「今日も遊ばない」とメッセージを送ってシャワーを浴びて寝る事にした。
例文2.強盗犯への後手後手な警察対応を見ていると、まるで仏の顔も三度までと容認しているようにも受け取れ、政府や国会がもっと厳罰化に踏み切らないから犯罪行為を助長させると四六時中守られているお偉いさんは達は気付きもしないのだろう。
例文3.日本は諸外国に舐められっぱなしで、どんなに仏の顔も三度までと外交で訴えても、翌日にミサイルを撃ち上げられては領海内に漁船が入ってくるのだから実に情けない。
例文4.仏の顔も三度までと言うが、ワクチン接種も三度までにしないと免疫力が逆に下がると言ってもきっと誰も信じないだろうが、後10年も経てば盲目な日本人も欠点有りきと認めるのではないのか。
例文5.短気な受験生の兄は仏の顔も三度までどころか一度でも夕食に不満があると怒り出し、「大学に合格できなかったら栄養不足が原因だ」と叫び母親を困らせるが、既に二浪しているので今回も失敗したらと考えると家族には生き地獄である。
「仏の顔も三度まで」を使った例文となります。
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仏の顔も三度までの会話例
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さっきの課長の顔、怖かったー。
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温厚な課長でも、あんなに怒るんですね。私は初めて見ました。
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俺もだよ。仏の顔も三度までって言うけど、課長はきっと5回ぐらいは我慢していたんだろうね。だからブチギレたんだよ。
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でも…、古いパソコン相手にあんなにキレるって、実は課長って短気なんじゃないですか?
人格者として知られる課長がパソコン相手にキレた事を受けて、同僚同士が噂話をしています。
仏の顔も三度までの類義語
「仏の顔も三度まで」の類義語には「堪忍袋の緒が切れる」「地蔵の顔も三度」「仏の顔も日に三度」「無理は三度」「我慢の限界」「爆発寸前」などの言葉が挙げられます。
仏の顔も三度までの対義語
「仏の顔も三度まで」の対義語には「鬼の目にも涙」「三度目の正直」「三度目は定の目」などの言葉が挙げられます。
仏の顔も三度までまとめ
温和とされる仏のような人でも三度も酷い事をされたら怒ってしまうのが「仏の顔も三度まで」です。我慢してきた方が怒り出す前にセリフのように吐いて使うケースが多く、要はそれぐらい我慢が限界だったと相手に理解させる為に吐かれる諺となっています。