津田梅子(つだうめこ)

津田梅子は日本の教育者で、女子教育の先駆者と言われている。また、現在の津田塾大学(当時の名前で、女子英学塾)の創始者である。
※画像(国会図書館ウェブサイトより引用)

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津田梅子の生い立ち

津田梅子は、江戸の牛込南御徒町の生まれで、梅子の父は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失った。しかし明治2年に築地のホテルへ勤め始め、一家で向島へ移り住んだ。そこで父は西洋野菜を栽培し、梅子は習い事や父の手伝いをして育った。6歳の時には岩倉使節団に随行して渡米し、英語だけでなく、ラテン語やフランス語等も学んだ。その後、明治15年に帰国を果たす。
また外務であった井上馨の夜会と呼ばれるバーティーで伊藤博文と再会し、当時の華族女学校で英語教師として勤めた経験もある。
再度の留学を経て、日本婦人米国奨学金制度で8000ドルをアメリカ留学中に集めて、日本の女性教育の改善を訴えて教育者としての道を歩んでいきました。現在も女子大学としてある津田塾大学(当時;女子英学塾)を創設したのは1900年であり、約120年も前となります。

津田梅子の人物像

津田塾は、それまでの行儀作法の延長上の教育ではなく、進歩的で自由な高レベルの授業が評判だったが、当時はその厳しさから、脱落者も多かったといいます。それは当時の日本の女性教育が社会で活躍するという事を念頭に置いたものではなく、妻として母として、そして一族親戚に対してどのように振る舞うのかが中心であり、そういった日本の結婚制度や女性の在り方に疑問を感じ、女性教育に力を入れ、自らの一生を捧げたのではないでしょうか。

津田梅子の偉業

偉業1.華族子女を対象とした私塾、桃夭女塾を開設
偉業2.日本女性留学のための奨学金設立(日本婦人米国奨学金制度)
偉業3.女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立
偉業4.女子英学塾の社団法人化
偉業5.日本における近代女子教育の確立
津田梅子さんは新紙幣の肖像画になる事で注目を浴びていますが、徐々に日本も女性が活躍する社会になりつつあります。
少しずつ女性の活躍が広義に広がっている事を見て、生涯を女性教育に捧げた津田梅子さんはどう思っているのか聞いてみたいですね。

津田梅子の作品や名言

津田梅子の言葉には、女性視点のものや教育者としての視点で残されたものが数多く残されています。例えば、「先生をするのであれ、主婦になるのであれ、どのような方面の仕事をするのであれ、高尚な生活を送るように努力してください。古い時代の狭量さ、偏屈さを皆さんから追い払い、新しいことを求めつつ、過去の日本女性が伝統として伝えてきたすぐれたものはすべて保つ努力をしてください」という言葉が残されています。

津田梅子まとめ

近代における女性教育の先駆者として活躍し、その名を残しました。特に女性視点でのものの考え方は、現代においても強く残っています。また、女性活躍の基盤を作ったとして、新5千円札の肖像画として起用されることとなりました。

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