「真田幸隆」の生い立ちや人物像、偉業や作品を徹底解説!

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真田幸隆(さなだゆきたか)

NHK大河ドラマ「真田丸」で有名な真田幸隆ですが、彼は人脈があり調略がとても上手い武将でした。
今回は大河に起用されるほど魅力に溢れた真田幸隆について、生い立ちや人物像など詳しく解説していきます。

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真田幸隆の生い立ち

永正10年現在の長野県東御市にあたる信濃国小県郡(しなののくにちいさがたぐん)で生まれたと言われています。
ただ真田幸隆の出生については武将で豪族でもあった海野棟綱の子である、海野棟綱の娘の子である、海野棟綱の娘婿であると諸説があり史実がはっきりしていません。
ただ近年は海野棟綱の娘婿である真田頼昌の子供である説が主流とされています。
また残念ながら出生後の幼少・青年期の記録は全く残っておらず不明なのです。
時は経ち天文10年、真田幸隆が28歳の時に武田信玄の父である武田信虎がその当時 海野棟綱と対立していた村上義清に共同で侵略しようと持ちかけ、当時村上義清と対立していた諏訪頼重も説得し3氏同盟を組み連合軍として信濃国へ侵略してきます。
真田幸隆が従っていた海野棟綱は5月の海野平の戦いで大敗してしまいます。
真田は領地を失い、長野尚業(ながののりなり)の箕輪城に保護してもらいます。
そしてその後、またもや史実がはっきりと分かっていないのですが、どういう訳かなんと真田は苦しめられてきたはずの武田家の家臣となるのです。
ここから真田幸隆は生き残りをかけたとも言える素晴らしい調略を次々と成功させ偉業を成していくのです。

真田幸隆の人物像

真田幸隆は広い人脈を持っていました。
これは数々の功績を上げる際にも非常に有効だったと考えられています。
彼がなぜ人脈を持っていたかというと、先祖でもあるといわれている滋野一族が広い地域で栄えていたからです。
コネクションがあっただけでなく行動力にも長けており、誰にも依存しない性格だったとも言われています。

真田幸隆の偉業

偉業1.天文20年 武田信玄が生涯で一番大敗したといわれる砥石城を内通者を使い相手の武将を寝返らせ1日で落とす。
偉業2.天文22年 切望していた上田一帯の旧領地を回復させた。
偉業3.弘治2年 上杉謙信の尼飾城を陥落させる。
偉業4.天文22年〜11年間 5回に渡る川中島合戦で有利に運ぶ為の諜報活動や戦いに励み最後まで信濃を謙信に渡すことはなかった。
偉業5.永禄6年 議を結んで斎藤憲広を安心させた後、斎藤憲広の甥や海野幸光と輝幸2人の兄弟を寝返らせ岩下城を突然攻め乗っ取る。

その他にも幸隆は六文銭(三途の川を渡る際に支払うお金)を家紋にし旗印にして敵に「命を惜しまない覚悟」を見せつけたりしたと言われています。

真田幸隆の作品や名言

真田幸隆は家訓として「真田の武士は命を粗末にしない」「どんなことがあっても最後まで苦心して生き延びること」などという意味の家訓を残したと言われています。
真田幸隆に関しては史実が明らかでない部分も多く、伝説のように語られることも多いので確かな名言としては残っていません。
ですが、彼が真田家の強力な基盤を作ったことは確かです。
幸隆だけについてではありませんが、真田家についてかかれた史書としては「加沢記」があります。

真田幸隆まとめ

智将として有名な真田幸隆ですが、身体には20箇所以上の傷があり武士として非常に勇ましかったとも言われています。
また生涯で企てた数々の工作や諜報のために忍者を沢山囲い養成もしていました。
フィクションのような話しですが「加沢記」にも記されています。
そしてこの忍者達は「真田忍者」と呼ばていました。
インパクトがありますね。
「真田十勇士」を始め色々な話しの題材にされるのも納得出来る、魅力的な武将だったのです。

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