三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
「三方ヶ原の戦い」とは「徳川家康が武田信玄に敗れた戦国時代の合戦」です。学生時代は戦国大名にあまり興味がなくても、大人になって時代劇や大河ドラマを観るようになると自然と嵌まってしまいますよね。戦国時代といっても所詮は人間同士のドロドロした部分があり、それが会社や役所勤めの自分とフィードバックするからでしょう。
この記事の目次
三方ヶ原の戦いの意味とは
「三方ヶ原の戦い」の意味は以下の通りとなります。
(1)武田信玄と徳川家康・織田信長の連合軍が1573年1月、現在の静岡県浜松市である遠江国・三方ヶ原で戦った合戦で、結果は武田信玄の圧勝だがその後体調悪化で天下取りを果たせず命を終えた事で知られる戦国時代を代表する戦の一つ。
”三方ヶ原”は「遠江国敷知郡の三方ヶ原で現在の静岡県浜松市北区三方原町の近辺」となり、その地名から取られた戦国時代を代表する両雄のぶつかり合いとなった死闘が元亀3年12月22日(現在の1573年1月25日)に起こった「三方ヶ原の戦い」です。これは武田信玄と徳川家康・織田信長の連合軍による合戦ですが、双方の大将は武田信玄と徳川家康となるのでこの2人の戦いという意味合いが強く、また武田信玄と徳川家康は信玄が亡くなるまで計8戦交えて、武田信玄の6勝2分と圧勝している事からも当時の力関係が窺えます。「三方ヶ原の戦い」においては武田軍が兵士の数で圧倒しているので勝って当たり前ではありますが、逆に見るならこれらの敗戦があっても命を落とさずに最終的には天下人になる徳川家康というのは興味深いところがあります。このような背景から戦国時代の歴史から見ても最も有名な戦の一つとなっているのが「三方ヶ原の戦い」です。
三方ヶ原の戦いの由来
「三方ヶ原の戦い」は元亀3年12月22日、当時勢いを増して領土を拡大していた武田信玄が遠江国に攻め込み、徳川家康が三方ヶ原で迎え入れた戦いです。結果的には武田信玄が圧勝し、家康側は有力な家臣を何人も亡くしギリギリの状態で浜松城まで逃げ帰ったと伝えられています。
三方ヶ原の戦いの文章・例文
例文1.三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康がその後天下人になるとは誰が想像できただろうか。
例文2.歴史に残る合戦とは三方ヶ原の戦いの事である。
例文3.現代においても何かと三方ヶ原の戦いと喩えられるぐらいなのだから、当時の庶民や農民にとってはとんでもない出来事だったと想像するのは容易い。
例文4.歴史の先生が授業中に三方ヶ原の戦いを熱く講義していたが昼休み明けの平和な時代の申し子であるZ世代には何ひとつ響かず、強烈な眠気から誰もまとも聞いていなかった。
例文5.静岡へ旅行に行ったらお茶を飲み、サッカー観戦をして、最後は浜松で三方ヶ原の戦いの跡地を訪れたいものだ。
「三方ヶ原の戦い」を使った例文となります。
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三方ヶ原の戦いの会話例
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ちょっと待ってよー。三方ヶ原の戦いを知らないの?
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どこかで一度ぐらいは聞いたような気もするよ。でも、中身を説明してって言われたら、無理だわ。絶対に無理。
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それを世間は知らないって言うんだよ。いい、戦国時代の中でも最も有名な戦が三方ヶ原の戦いだよ。
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嘘だー。いちばん有名なのは関ヶ原の戦いじゃないの?
歴史や戦国時代が好きな人と疎い人の会話内容です。
三方ヶ原の戦いの類義語
「三方ヶ原の戦い」の類義語には戦国時代の戦として「本能寺の変」「朝鮮出兵」「関ケ原の戦い」「長篠の戦い」などの言葉が挙げられます。
三方ヶ原の戦いの対義語
「三方ヶ原の戦い」の対義語はありません。補足として「戦争」の対義語は「平和」「平穏」「平安」「安穏」などになります。
三方ヶ原の戦いまとめ
戦国時代に武田信玄と後に江戸幕府を開く徳川家康が戦ったのが「三方ヶ原の戦い」です。徳川家康は織田信長から支援を受けますが結果は武田信玄に敗れ、勝利を収めた武田信玄も病状が悪化し撤退する事から、現代においては両雄を語る上では欠かすことが出来ない「乱世を象徴する戦」という扱いになっています。